今回はタイトル通り、粗い写真「ボケ」や「ブレ」について
過去の写真を交えながら紹介していきたいと思います。
撮り手によってこれを"有り”とするか”無し”とするか決まりますね。
愛すべきフィルムカメラのアレ・ブレ・ボケ
このブログではあまり難しいことはかかない(かけない)主義として
猿(の僕がやっている)でもわかる写真について
個人的な見解をまとめたりしてるのですが
今回は、フィルムカメラ(コンパクトフィルムなど)で撮影しているよく起きる
アレ→粗い写真 ブレ→ブレている写真 ボケ→ピンボケな写真
について書いていきたいと思います。
どう捉えるか撮り手次第!
スナップ的に写真をやっているとフィルム1ロールにつき
数枚の粗い写真や、ボケボケの写真、ブレてしまった写真などが
出てくる。
これを”失敗”として処理するのか、この躍動感を”ヨシ!”とするのかは
撮り手の考え方次第で変わる。
ちなみに、ぼくは好きなので
むしろあえて、ブラしたりして写真を撮ったりもする。
スローシャッターで人物を撮ったり、コンパクトフィルムカメラならば
自分が動きながらシャッターを切ることもある。
意図的に躍動感を演出させたりするために
アレ・ブレ・ボケってのはとてもいい表現方法です。
アレ・ブレ・ボケにも良し悪しがある?
とはいえ、アレ・ブレ・ボケの写真が全部がいいわけじゃない。
ストリートスナップ的に写真を撮っていると
意図しない場面で、ブレてしまったり
見せたいものがはっきりあったにも関わらずボケてしまった、みたいなこともある。
それはいわゆる、”失敗”になるんだろう。
ただ、実際には現像して仕上がった写真をみて
「これはこれでありだなぁ。(笑)ふむふむ」なんてこともある。
それが写真のおもしろいところかなぁと思います。
ぼく、個人的にはそういった意図せず撮れた写真も
かわいい一枚として愛することが出来たら、もっと写真が楽しくなる
と考えているので、ストライクゾーンは広い方がいいかなぁって思っています。
時と場合によっては、ストライクゾーンが広くなったり狭くしたりする必要があるので
あくまで基本的考え方として、という意味ですね。
作例
ちょっとやりすぎちゃってますね、この写真は。
だから無し、です。びよーんってなりすぎ。
これは自分が意図していなかったのでボツ。
こちらの写真は有りの写真です。
額装にもしたぐらいお気に入り。
BLURというタイトルをつけるにはまさしくといった一枚です。
ぼんやり揺れたような写真を撮りたくて
フィルムカメラで少し揺らして撮影をしました。
ぼんやり見える、いつかの夜道です。
言語化はできる方がいい
ぼくは写真に対して、言語化できることと言うのを重要だと考えています。
なんでこの写真が撮れたの?と自問自答したときに
なんとなく撮れた、は無しですね。
実際にはなんとなく撮れた写真というのはたくさんあるんだけど
でも、その環境・状況・装填していたフィルムなどなど
それらをきちんと整理して
言語化して、自分のなかで理解をして落とし込む。
で、次から同じような表現をしたいときは
意図的にシチュエーションを作り出して撮影する
写真にとって、この作業っていうのはとっても重要だと思うので
撮った写真には絶対にたくさん触れて、頭で理解して
理解したことを、手で動かす。現場で指に伝達するんです。
これが、超重要なんですよね。
だから、アレ・ブレ・ボケも写真に対して
言語化できなきゃ、ある意味では失敗みたいなものなのかな。
失敗というか、まぁ予期せぬ写真ですからまぐれってことですね。
有り派と無し派
本当、撮り手によって
有り派と無し派に分かれると思うんです
ビートルズでいう、ジョン派かポール派かがあるみたいに..
でも、まぁ全部写真です
写真の話なんで、ひっくるめて写真として愛せたらいいですね!
写真というのは自分の頭の中がまるっと表現されちゃう一つの表現方法ですから
自分の瞳にはこう見えてますよ、こう写ってますよ
と、一枚一枚ある種の発表会をしているようなもんです。
だから、アレ・ブレ・ボケ写真って
その人にみたら、そう見えてるってことなんだと思うんです。
だから、ぼくの瞳にはきっとブレて、ボケて見えてるんですね。
それが少しノスタルジックな雰囲気の演出に繋がったり
また、どこか断片的なぼんやりした記憶の一端のような一枚になったりするんです。
ぼくが、カチっとキチッとなりたかったら
そういった写真はきっと撮らないし、撮れないでしょうね。
どこから粗ているし、ゆらゆらブレている、ぼんやりしているって
ことなんですね。
ぼくはそんな人です。
写真は自分をうつす機械ですね。